南天 Written by 楠見 優太

令和

教養

 平成31年4月1日に、新しい元号は「令和」ということが発表されたことは記憶に新しいです。

 出典は日本最古の歌集『万葉集』の
「初春(しょしゅん)の令月にして気淑(よ)く
 風和(やわら)ぎ 梅は鏡前(きょうぜん)の粉を
 披(ひら)き 蘭は珮後(はいご)の
 香を薫(かお)らす」
からです。

 当時の安倍晋三内閣総理大臣は、「人々が美しく心を寄せ合う中で、文化が生まれ育つ」と「令和」について説明をされました。

 「令」については、命令の「令」とか、レイと読めることから平和ゼロとかそういう解釈が氾濫していました。しかし、「令」は、会意文字でして、その意味は「人がひざまずいて神仏(大自然)からのお告げを聞く姿」とです。

 これは、多々、当ブログで自然・究極的な実存からの意図をどう読み解くかということを申し上げていましたが、これと通じます。

 つまり、私たちの身の回りに起こることは、神仏(大自然)の意図があり、その意味でお告げであるわけなので、きちんとそのことをわかりなさいよ、ということです。

 私たちが、鈍っていると、神仏(大自然)は、「まだわからないのか。これでもか、これでもか。」とその意図を、より強く、はっきりと、誰にでもわかるように伝えようとされると思われますが、その方法(天変地異・疾病など)に堪えられない人間も出てきて、何が起きているのかわからないまま、この世から消え去ってしまうことも、普通の出来事になります。

 神仏(大自然)はされるときは、徹底的にされますから。

 そのようで、あれば、どうすれば、その意図がより感受できる感度を上げられるでしょうか。私が、考えるに、ぼ~っと、のんびり、ゆっくりすることが最重要です。

 なぜならば、例えば、あなたが仕事で頭が一杯ということであれば、目の前の景色、音、香りがあなたに、神仏(大自然)の意図を伝えようとしていても、あなたは情報を自分の中で、十分に処理(受信)する余裕がないからです(鈍っていると、春に桜を見ても美しいと思わなかったり、夏に入道雲を見ても、すごいと思わなくなっています)。
 もっと端的にいえば、神仏(大自然)の意図の受け入れ態勢が整っていないからです。

 このことは、特定の人が、ぼ~っと、のんびり、ゆっくりすればいいということでなくて、総ての人がすべきであるということになるでしょう。

 そのためにも、誰にでもにわかるように、「令和」という元号に「令」という会意文字が選ばれたのです。

 一人でも、多くの方にこのことについて、お気づきいただきたいです。