知覚・推理・直覚・天啓
本題の前に、「科学的に・・・」とよく聞きますが、「科学」とは簡単に言うと何でしょうか。
結論を申し上げれば、「科学」は、人間の経験した知識の集積したものでありますから、いつ、どこで、誰が試みても、必ず同一の結果を表すものでありますが、その人の性格によって、計算の誤謬は免れないと言われています。
科学的研究の目的は『如何にこの世界の万物が組み立てられているか』ということでして、何故(Why)ということではありませんから、研究の範囲が限定されています。
私達が知的に経験して知ることは、身辺の限られた一部分だけのことで、その先は推理で判断します。
科学は、如何にこの世の中が組み立てられてあるか?(How)を説いたものでありますが、哲学と宗教は、何故(Why)を説明したものです。そのため、科学・哲学・宗教の関連について説明する必要があります。端的に言えば、この世の中に起こっている種々雑多な出来事を知る働きは、次の4種類から成り立っています。
1 知覚(Perception)
2 推理(Ratiocination)
3 直覚(Intuition)
4 天啓(Inspiration)
1 知覚
私達は日常、あれは雨だ、これは本だ、それは石だ、向こうから人が来る、など、直接目に触れて見なくとも、それが何であるのかを知ることができます。
これを知覚といいます。知覚は、五感を通して経験の結果、知り得たことです。
2 推理
推理を最もわかりやすく説明するには、三段論法が一番良いでしょう。
⑴ A=B
⑵ B=C
⑶ ∴A=C
この場合、AとBは比べてみたもので、BとCも比べてみたものです。しかし、AとCは比べることもなく、等しいと断定するのです。これが推理です。したがって、推理は一つの経験を通して、未経験の事柄を知ることです。
3 直覚
直覚は、知覚と推理をこね混ぜて延長したようなものです。知覚は五感を通して経験の結果、事実を知るのですが、直覚は五感の働きに依らず、六感を通じて実在を知り得る脳の働きです。例えば、科学的知識の経験を積み上げて、その後知り得る事柄を、科学的知識の階段を踏まずに、知り得る働きです。
その実例を挙げれば、今日のように科学的知識が発達しなかった約二千年前におい
て、老子は、今日の科学的知識の最先端を行く原子論を、一行の中に言い表していま
す。
『道は一を生じ、一は二を生じ、二は三を生じ、三は万物を生ず。』
(混沌の別名「道(シュ)」(無・空)から一が生じ、一は陰陽を生じ、陰陽から万物が生じた。一とは有(う)に化けるエネルギーのこと)
また、釈迦が仏教において、宇宙の真諦を説いていることも、直覚の働きです。
どうしたら、直覚作用が起こるのでしょうか。
それは、本当に虚心無我になって、「宇宙の真理が知りたい!知りたい!」と念願すれば、その願いが宇宙の大霊(呼び方は、他にもあるでしょう)に通じて、願うところの真理が、あたかも暗夜に燈火を以て照らされるように、現れてくるのです。
仏書に有名な句があります。
『諸行無常 是生滅法 生滅滅巳 寂滅為楽』
(諸行は無常なり、是れ生滅の法なり、 生滅を滅し已れば、寂滅を楽と為す)
これは、釈迦が山中に居たときに、雪山童子と呼ばれて、菩薩の修行をしていたときに、帝釈天から教えられたのだと言われています。この「帝釈天」は、日本的に言えば「天狗」の類でしょうが、字義からすると、天の理法を解釈する天帝で、今日の言葉で言えば、天地を主宰する神とか、大霊のことですので、釈迦の「真理を知りたい!」という切なる念願が、宇宙の神霊に通じて現れた、「神示」というべきでしょう。
4 天啓
インスピレーションは、五感や六感の働きを待たずに、突然、ある見解、又は思想が頭の中に現れます。そしてその事柄が、科学的知識の最後の到達点を知り、又は哲学的知識の最後の到達点をも知り得るばかりではなく、科学的又は哲学的に知り得ないところをも知り得るのです。
多くの宗教はこの「天啓」、若しくは「直覚」によって知り得た世界の事象を説いたものです。「直覚」は自発的に、又は自働的に直接、宇宙の大霊へと呼び掛けて、霊的交信をすることですが、「天啓」は宇宙の大霊の方から、特に選んだ人に呼び掛けて、天界における神秘の知慧を授ける業と理解したらよいでしょう。
したがって、この種の人は自発的努力ではなく、天性、生まれながらにしてその器量が備わっているのです。キリスト教における、いわゆるイエス・キリストが存在したのであれば、正にそれです。聖書は、キリストとその使徒達が、「天啓」によって書かれたものです。イスラム教におけるクルアーンも、ムハンマドへの天啓が基礎となって成立したのです。
我が国の国宝である古事記に記されてある「神話」も、「天啓」によって書かれたものです。
その序文には、
『乾坤初めて分かれて、参神造化の始めを為し、陰陽こゝに開けて、二霊群品の祖たり、この故に幽顕に出入して、日月眼を洗うに彰わる・・・』
とあります。
この文意は、老子の言った『道は一を生じ、一は二を生じ、二は三を生じ、三は万物を生ず。』と同意義なのですが、老子は哲学者であり、頭脳が明晰であることから、「直覚」によって知り得たので、理論的に言い表しています。しかし、古事記は「天啓」によって知り得たことを、後から漢文で書かれたものですから、文学的に書かれています。ここが、「直覚」と 「天啓」の違うところです。
仏教は釈迦の直覚によりますので、理論的に表され、キリスト教は「天啓」でありますから文学的に表されています。もっと言えば、哲学は理論的に解説され、芸術は直感的に表現されます。
一般に西洋哲学は科学的知識を基礎として、その上に推理を組み立てたものですから、その説明は帰納的でして、最後に、その究極において、神秘の世界に到達します。
しかし、東洋哲学は「直覚」又は「天啓」によって知り得た実在を説明したものですから、演繹的となります。即ち、西洋哲学が未知の世界とする神秘の世界を、天啓的に、又は直覚によってこれを知って、そのところより出発して現実世界を説明したものなのです。
ところで、多くの人(私も含めて)が物を知るというのは、実は極めて狭い範囲内の一部分だけのことです。そして、極めて少数の人のみが、推理・直覚・天啓の働きをする能力を有しているに過ぎないのです。そこで、普通人を凡人といい、推理の働きをなし得る能力のある人を有能人といい、又は大学者といい、直覚力と天啓的にはたらく能力者を天才といいます。
科学は現象世界の研究ですが、その研究の結果として、そこに一糸乱れない自然の法則が現れてきます。その厳然する法則を研究すると、哲学の領域に入ります。さらに、その哲学の領域を究めると、遂に宗教の世界に入ります。これは、学問をした人の進む常道です。
例えば、上記の動画の12分03秒辺りから紹介されている、内容は仏教やスーフィズムに通じるものがあります。
従って、最先端科学を探求すればするほど、今まで宗教と言われてきたことが、実は科学だったということが明らかになるでしょう。
どのように証明されていくのかを考えると、とてもワクワクします。